忘れたい過去の思い出し方
その日の私はイラついていた。さっさと飲みにでも行きたい気分だった。
それは、会長室にラタキアの葉の匂いが染み込んだパイプ以外のパイプを持ってくるのを忘れたからかもしれなかったし、出勤時にハイヤーのドライバーが私に気付くのに遅れて、すぐにドアを開かなかったからかもしれなかった。
しかし、高血圧と心臓の病を抱えた私にはストレスは大敵なのだ。
私は、仕事を早めに切り上げると大手町の社を出て、車に乗り込んだ。運転手にかかりつけの病院に寄るよう告げると、運転手は、車を注意深く発信させた。
自動運転が発達した世の中では、人が事故を起こすと訴訟で多額の賠償金をとられる。人々は、ロボットを信じ、運転手を雇うためには、多額の税金が課された。お金を払ったからといって、雇い主が安全運転を命じるわけでもないのに、連中は何を考えているのだろうか。
病院で主治医は私にいった。
「もう、正直にいって、長くは持たないでしょう。2年、いや1年持てばいいほうでしょうか」
私は、うんざりとした。
肩をすくめて「そんなことはどうでもいい。安定剤と睡眠薬をくれ」といった。
彼は、声を潜めて言った。
「若返りの薬はどうです」
私は「下半身の薬はいらんぞ」とジョークを飛ばしたのだが、彼の言い分は違った。
アンチエイジング薬というやつらしく、これは飲むと飲んだ錠数分だけ若返るというやつらしかった。
私は、それをすぐさま頼んだ。
齢85、私だって、もう一度青春を体験したい。
65錠頼んだ。院内処方で65万円。
若返れるのなら、いくら払ってもいいと思った。
私は、ハイヤーに乗り込み65錠を5錠ずつウイスキーで流し込んだ。
青春時代を思い出すように。
そしてパイプを吸った。
いやにむせる。
ラタキアの気分ではないからか。
私はアームレストの隣から窓を眺めた。
いや、眺めようとした。
私は、パイプを落とし、むせかえった。
なぜなら、そこにいたのは往年の大女優「有村架純」だったからだ。
(かすみ)「大地くん、久しぶりだね」
(私)「か・すみさん?」
(かすみ)「やだなあ、まるで何年も会ってない友達みたいに?何?同窓会ごっこ?いいよ?私何役?ねえねえ」
そこにいたのは確かに有村架純だった。
そして、その横に座るのは20歳の僕だった。
ハイヤーの車内がひどく新鮮で、高速に浮かぶカーブマーカーはかすみだけを照らしているようだった。
ただ、僕は青春時代に有村架純に邂逅したことは一度もなかった。そう、一度も。
そりゃあ、ドラマは見た。映画も見た。
だけど、20歳の僕は大学生で彼女は芸能界にいたはずだ。
私たちは、葉山の自宅に向かっていた。
会社に出社すること自体が、時代遅れな現代に、私は未だに出社している。そして、ホログラムとして私の前でプレゼンをする社員らにレビューをしている。
なぜか。そこに本来の対面のコミュニケーションはない。
出社することに意味はない。
私が出社するのは、その行動に付随するコミュニケーションに意味がある。つまり心を許せるのがハイヤーの運転手と妻だけだからだ。しかし、妻も私が長話をするとうんざりするようになった。
だから、景色を眺めながら、運転手と会話することが日課となったのだ。
(かすみ)「あの頃の大地はお酒ばっかり飲んでたね」
(私)「そうだね、忘れたかったから」
(かすみ)「将来の不安とか?」
(私)「違う、過去を。凡庸な自分とその過去を忘れるために、酒を飲んでいたよ」
(かすみ)「でも、普通、夜はさ、恋人といるじゃん」
(私)「そりゃ、そんな日もあったさ。だけど、ほとんど酒を飲んでいたよ。何故なら、イチャイチャしても、例えば、セックスをしても、過去は忘れられないからね。子供はできるけど」
(かすみ)「過去、変えたかったの?」
(私)「そうだね」
僕らは不思議と、すらすらと会話できた。
20歳の僕に感謝したかった。大女優を前にして怖いもの知らずの過去の僕にね。
(かすみ)「それで、過去は忘れられたの?」
(大地)「そうだね。覚えていることはあの頃、飲んでいたことだけ。それ以前のことは忘れてしまったよ」
(かすみ)「そっか」
(大地)「未来を見て歩めって言われたしね、いろんな人に」
(かすみ)「今、幸せ?」
かすみは、純朴な目で私に尋ねた。
(大地)「うーん。ま、かすみちゃんが横にいるしね」
かすみは、苦笑いを浮かべて、私を小突いた。
(かすみ)「私と昔一緒にいたことも忘れたかあ」
(大地)「それはかすみの作り話だw私はテレビで君を見た。しかし、実際に会ったのは今日が初めてだ」
(かすみ)「私はテレビに出た。だけど、大地に出会ったんだよ。テレビに出る前に兵庫で。それも、忘れちゃったのかなあ、飲みすぎで」
(大地)「だとしたら、僕は少しばかり飲みすぎているよ、こんな美少女忘れるはずはない」
(かすみ)「私、あの頃、太ってて、オーディションにも落ちたからなあ」
(大地)「僕たちは、どれくらい親密だった?」
(かすみ)「有馬温泉に行ったよ」
(大地)「嘘!嘘!ワンチャン????」
(かすみ)「懐かしいね、その言葉」
(大地)「はははw取り乱した。君は可愛かった。でも、僕は?どうだった」
(かすみ)「なんだかねえ、寂しそうだった」
かすみはしみじみと語りかけた。
都会の夜空の静寂に、独特のほんわかしたリズムが響いた。
(かすみ)「誰も信じない、寄せ付けないって感じだった。私は不安だったから、同じ不安を持っていた大地と出会ったんだと思う」
高層ビルに反射した月光がこちらを向いて笑う。ぴかぴか光る。
星の光が何億光年の時を経て、高速の路面に舞い降りているようだった。
私は、幸せだったのだ。
私が何千杯と飲んだお酒なんて本当はいらなかった。私の過去は幸せだった。
だって、こんなに可愛い女の子と過去に出会っていたのだから。
車は、葉山についた。
運転手に彼女を家に送るよう言付けると家に入った。
ハイヤーの中には、誰もいないような気がしたけれど、それは、葉山の暗さのせいだった。
ハイヤーのスモークガラスのせいだった。
運転手は不思議そうな顔をして、おやすみなさいませと私を見送った。
私は、妻の作った美味しい晩御飯を食べ、風呂に入り、睡眠薬を飲んで寝た。
朝になると、私は85歳。
あのヤブ医者、あの薬1日しか効かないのか。
今日も処方箋をもらうか。
私は、出社後まもなく、医者に向かった。
私「あの薬、1ヶ月分くれ」
医者「1ヶ月分?無理だよ。あれは一錠飲むごとに寿命が5日縮むんだぞ」
私は言葉を失った。
昨日飲んだのは65錠、つまり1年近く寿命を縮めてしまったのだ。
私「でも、有村架純と一緒に喋れて、ほら、私の幼少期の思い出が」
医者「目を覚ませ。運転手も言っていたぞ。独り言を言っていた、と。あれは酒で飲むと幻覚を見る」
私「つまり?」
医者「有村架純は、君の幻覚、妄想だ」
私「じゃあ、僕の過去って」
医者「脳が萎縮して、記憶は戻らないだろうよ。せいぜい今の幸せを大切にな」
私は、家に飛んで帰り、妻に詫びた。
「私の命は、後1ヶ月くらいだ」
妻はやさしく語りかけた。
「あなた幸せ?私を愛してる?」
「ああ、もちろんさ」
「じゃあ、よかったじゃない。昔の好きなアイドルとも話せたんでしょう」
「それはそうだが」
「私は大地が幸せならいいわよ」
私は、わんわん泣きながら、妻とワインを飲んだ。毎日飲んだ。
40日が過ぎた頃、私は意識を失った。
走馬灯が巡る。
妻は私の手を握る。
友達とシャンパンを飲んだこと。
有村架純が話す後ろの夜空は彼女の言葉みたいに綺麗で、ぼーっと眺めたこと。
妻の料理が毎日美味しかったこと。
過去なんていらない。
欲しかったら、偽物でもいいから作ればいい。
大事なのは、今、目の前にいる人なのだ。
私は妻とエヴィアンで乾杯をした。
妻は破天荒で最後まで面白い人。
大好きだよ、幸せだった。ずっと。
遠くに聞こえる彼女の声。
私は、私の過去に固執していたことに85歳にして後悔の念を持った。
幸せって、見たいものを見ることだけど、嫌なことも受け入れるってことだったんだ。
けれども、走馬灯は語る、海と空は水色の言語で私に語る。
私の本当の青春はどこに行ったのだろうね。
幻想が作り出したかすみは、私の理想の青春。
そして、手を握る妻は最愛の人生の伴侶。
青春、青い春。桜が散る景色の幻覚なんて、本当は誰にもないのかもしれないね。
私は、薄く呼吸をして、眠った。